星宮通信 12月号
私たちはこれからなにを拠り所として世界と関わり、生命をつないでゆくのか。観念とリアルが交差する世相を読み解く。
2023年11月16日
POST
「ブーム」
「にわか」と
ニッポン人
星宮 宇宙(ほしみや くう)
2023.11.2
*「ブーム」に敏感「にわかファン」
9月から10月にかけて、ラグビーW杯がフランスで開催されました。前回大会(2019年)では、日本代表の活躍があり、マスコミとそれに煽られるようにブームになり、「にわかファン」はその年の流行語大賞にノミネートされました。
9月は日本でも「ブーム再来」とばかりに一定の盛り上がりを見せ、TVのニュース、ワイドショー等で連日報道、新聞のスポーツ欄も紙面を大きく割いていました。特に、決勝リーグへの進出がかかった対アルゼンチン戦がその頂点で、コメンテーターの女性は「ルールとかはよくわからない「にわかファン」だけれども、今夜は寝ないで中継を見ながら日本代表を応援したい」と述べ、取材された子どもは、なにかのニュースを見て覚えたのだろう、評論家のようなコメントを語っていました。しかし、日本代表チームは敗れ、一次リーグで敗退(5か国中、3位)、決勝リーグへは進出できなかったため、熱気が急速に冷め、それ以降はほとんど報道されることもなければ、話題にならなくなりました。
この現象はラグビーに限らず、サッカーのW杯があれば、あたかも日本中がサッカーファンで溢れ、熱気に包まれているかのような演出がなされ、それに乗り遅れまいと「にわかファン」が増える。今年3月のWBC(ワールドベースボールクラシック)でも同様、夏の甲子園では慶応高校が107年ぶりに優勝したときも・・・です。ただ、世界陸上で金メダル、2023年ダイヤモンドリーグファイナルでチャンピオンを獲得した、やり投げの北口榛花選手の活躍は特筆されるべき素晴らしいものですが、それほど大きな話題として取り上げられなかったのは、陸上フィールド競技の個人種目だったことと、「にわかファン」の要件としてのひとつとして、老若男女が幅広く共有できる「日本代表チーム」ではなかったからではないか。その共通言語が日本代表を男子は「侍ジャパン」、女子は「なでしこジャパン」です。しかし、この名称がどうして選ばれ、定着したのか、また、選手たちも、ファンも違和感を感じたり、疑問を抱いたりしないのだろうか。
*消費と享受
スポーツイベントは花盛り、次から次へと開催されていきます。税金や公金をつぎ込んでのスポーツイベントの開催は、一部の政治家や資本家が大きな利益を得る構造ができており、新自由主義権力との相性がいいからです。そして、「にわかファン」はその時点での「ブーム」に乗り遅れまいとして、次から次へと消費していきます。消費行為ですから「ブーム」が去れば終わり「次から次へと気になるものに飛びついていくことと、深く考えたり、追求しないところ」「盛り上がりはしたいけれど、自分の人生を変えるような盛り上がりは避けたい」のが「にわかファン」です。
今年のプロ野球セ・リーグで優勝したのは阪神タイガースでした。2005年以来、18年ぶりの優勝です。阪神ファンは、18年間我慢してきたのです、耐えてきたのです。どんな弱いときでも、ボロボロのチーム状態の時でも叱咤激励し、18年間悔しい想いをし、ときには「阪神はどうして優勝できへんのか?」とバカにされ、あるいは自嘲的なるときがあっても、それでも「わが愛する阪神タイガース」を応援し続けるのが本当のファンです。そこには、消費としての応援ではなく、享受する喜びがあります。次の優勝が例え数年後になったとしても、それまで応援し続ける、感動と夢があります。
*日本文化としての「にわか」(?)
しかし、「にわかファン」は、マスコミに踊らされているわけではなく、情報化、消費化が進み、感情や快楽さえもが商品化された現代社会での生き方のひとつと言っていいのではないかと思います。意外と、日本の本質的な文化のひとつ、日本人の本質に合っているのではないか。それに、そのときの流行にノリ、消費してしまえば次の流行にノリ換える、次々とブームを追いかけては消費していく、実に「ポストモダン」的ではないでしょうか。
アニメーション映画『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』や『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』等で知られる押井守さんは、対談本『押井守のニッポン人て誰だ(⁉)』のなかで、次のように語っています。
「日本人は基本的に、どこかしら生きるリアリティが欠落しているのではないか。・・・妙に淡白というか、運命論的というか・・・」「分からないなら、分からないままにしておいたほうがいい」「流れにまかせておけば、なるようになる、昨日と同じように今日があり、今日と同じように明日が来る」。
「そもそも日本人は日本の歴史と、それはつまり世界とも向き合おうとは思っていない」「日本人のリアルって・・・そのひとつの答えが「永遠の日常」なんじゃないか」
押井守さんの発言に接すると、1960年代後半から70年代初頭にかけて、全共闘運動、ヒッピーやフーテンの出現と「コミューン村」などの「実験」、更には、ポップカルチャーの母胎としての芸術(映画・演劇・文学・美術・舞踏etc.)分野における前衛的試みが提起した問題のひとつに、日常性批判があったことを思い出します。
*ニッポンという国は?
1960年代後半から70年代初頭にかけて提起された問題には、「戦後民主主義の欺瞞」があり、「近代批判=反合理主義」がありました。三島事件で三島由紀夫が提起したことも、戦後社会の虚飾の日常と「日本」という国の正体を問うものでした、
日露戦争の時代の戦争思想と軍備でアジア侵略と対米戦争を始めて「鬼畜米英」「一億総玉砕」「後に続く者を信じる」と「神風=特攻攻撃]を敢行、「本土決戦」を唱えていたのに、8.15を境に「にわか」天皇主義者たちは「これからは民主主義の時代だ」と「にわか民主主義者」になり、占領軍への反乱はひとつも起きませんでした。その戦後民主主義の頂点として闘われた60年安保闘争の敗北後は「これからは経済成長と豊かな生活」と挙って邁進し、「サラリーマン」「ビジネスマン」という「にわか企業戦士」になり、その頂点が80年代の「ジャパンアズナンバーワン」、その命脈が尽きた「バブル崩壊」後の90年代から20世紀前半の現在まで「消えた夢」の代用品として、「ブーム」と「にわか」を消費し続けているのが現代のニッポン社会なのではないか。
日本は、明治維新以降、アニミズムを温存したまま、文明化し、近代化してしまった、国の形だけ、あるいは、技術力だけ近代化してきました。数学的明証性という目に見える世界だけでしか技術を理解せずに進められた近代化は、高度経済成長期には、水俣病などの公害を発生させ、その延長線上に3.11東日本大震災~福島原発事故も必然的に生じたのです。しかし、歴史への反省を回避したまま、汚染水を太平洋にタレ流し、他方で、リニア中央新幹線建設を進めています。
敗戦も、戦後の高度成長も、バブル崩壊後の21世紀に求められる転換も、「考えなくてもなんとかなる」と総括しないで来てしまったのが近代150年余だったのではないでしょうか。「総括」という表現が連合赤軍事件を想起させるようであれば、「宿題」と言い換えてもいいでしょう、宿題を出されるのが嫌で、回避しているから、いつまでたっても「卒業」できないのです。
*星が奏でる美しい音楽を
「温和な日常」が永遠に続いて欲しい、という夢は終わったのです。これからは、どう生きるかをめぐって、一人ひとりが自分自身や倫理についてどう考えていったらいいのか、が問われる時代が来ているのだと思います。それは、なにか新しいルールやマニュアルを作り出していくような小手先の処方箋であってはないし、だからといって、絶対的な真理や確実な根拠に安易に横滑りしようとすればカルトに足元を掬われることになりかねません。
きらびやかな外被をまといつつも、その行き詰まりが見えてきた1980年代に「オカルトブーム」がありました。しかし、猟奇的な犯罪やオウム真理教事件にその影響が見られたことから、1990年代以降は封印されてしまいました。ここでも反省と考える機会を放棄してしまったのです。
自然・宇宙(マクロコスモス)と人間(ミクロコスモス)の照応というすぐれて宇宙論的構図に根ざしたオカルティズム的知の巨大な領域を解明しようとすることは、日常のなかの<私>に囚われ、小さくまとまってしまうことなく、他者と世界へと想像力を開いていこうとする営みです。一人ひとりが、時には夜空を見上げ、星を眺めながら、宇宙の美しい音楽に耳を傾けてみてはいかがでしょうか。